撮影:宇都宮輝
「ターゲットの年齢層が違うFM COCOLOとFM802、その棲み分けがより重要になってきています」(栗花落)
「ラジオが棲み分けをしているとするなら、コンサートの運営も2ウェイ、3ウェイで考える必要があります」(中西)
1960年代から大阪で独特の音楽シーンが発展してきた背景には、常に「ラジオとイベント」という両輪がありました。ラジオ大阪を経て、FM802の開局に参加し、数々の音楽番組と「JAM JAMスーパーロックフェスティバル」「ミート・ザ・ワールド・ビート」などのイベントに携わってきたFM802代表取締役社長の栗花落 光さんは、まさに関西音楽シーンのキーパーソンであり、エリアを越えて業界関係者やアーティスト達から信頼され続けています。2 0 1 2 年より運営を開始したFMCOCOLOを含め、ラジオを「ローカル・メディア」「クラス・メディア」と位置づける栗花落さんと中西健夫ACPC会長が、ラジオ局とコンサートプロモーターに共通する課題を語り合いました。
中西:栗花落さんと初めてお会いしたのは、学生時代でした。大学4年生の頃にバンドをやっておりまして、OBC(ラジオ大阪)で演奏したりしていたんですけれど……後に当時のことをお話ししたら、栗花落さんは全く憶えていませんでした(笑)。
栗花落:当時はオーディション番組がいくつかあって、ラジオ大阪はニッポン放送のネットワーク局でしたから、「ライオン・フォーク・ビレッジ」の関西、四国、中国地区のオーディションをやっていて、僕が担当していた頃のお話だと思うんです。でも、当時のことをバンドのメンバーだった方々に「憶えていますか?」と言われて、申し訳ないことに憶えていないことが多いんですよ(笑)。
中西:憶えていなくて当然ですよ、40年近く前のことですから(笑)。僕らは京都のバンドでしたが、KBS京都というラジオ局のプロデューサーの方が、いたく我々のバンドを気に入ってくださって、番組に半レギュラーのようなペースで出演していたんです。それだけではなく「あそこにピザの店ができたから、演奏してこいよ」とか、営業の仕事もたくさん回してくれて、お陰で食いつなげたようなものでした。
栗花落:KBS京都がまだ近畿放送だった頃ですね。
当時は関西のラジオ局にも、バンドが出演できるオーディション番組や公開放送、公開録音がたくさんありました。各地のラジオ局を通じて、様々なアーティストがデビューしていったんです。若い才能をピックアップする力がラジオ局にはありましたし、特に深夜放送はサブカルチャーを生み出す場になっていたと思います。関西で言えば、その象徴がザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」でした(ラジオ関西でオンエアされたことをきっかけに、1967年から68年にかけて大ヒット)。
中西:今だったら音楽ファン同士がSNSでつながっていますよね。僕らが大学生だった時代は、それぞれが地元のラジオ局とつながっていたんです。ラジオは聴く側からすれば、自分に向けて放送されていると思えるというか、マン・トゥ・マンだと感じることができるメディアじゃないですか。だから真剣に聴くし、音楽も深く解釈しようとするんですよ。特に公開放送、ライブでアーティストがうたっているのを聴くときは、歌詞の言葉ひとつでも聴き逃したくないと思ってラジオに向かっていたような気がするんです。昔はエアチェックもできなかったですからね。YouTubeで動画を観る感覚とは全然違っていたでしょう。
栗花落:そうですね。
中西:その瞬間しかないんですよ。だから聴く側の緊張感が違いました。