栗花落:僕自身がラジオで音楽と出会った最初の経験は、小島正雄さんがパーソナリティーだった「9500万人のポピュラーリクエスト」(63年より文化放送など各局で放送開始)だったと思います。それでビートルズやボブ・ディランを知りました。ラジオ大阪に入ってからは映画『アメリカン・グラフィティ』(74年に日本公開)を観て、ウルフマン・ジャックのDJに憧れたんです。
中西:『アメリカン・グラフィティ』には、みんな憧れましたよね。
栗花落:次に衝撃を受けたのがCBSソニーから出た『DJ in Hawaii』(79年)というレコードでした。A面にハワイの放送局のKKUA、B面はKIKIのオープニングのテーマやジングル、D J のトークが入っていまして、KKUAのカマサミ・コングのDJが特に良かったんです。それでこの人と番組をやってみたいとハワイにオーダーして、コングにラジオ大阪のための録音をしてもらい、「カマサミ・コング・ショー」という番組にしたんです。当時はウェストコースト・サウンドが最先端で、大阪のアメリカ村を「日本のウェストコースト」だと見立てるムードもありました。僕もいつかは大阪で、アメリカのようなラジオ局をつくりたいという気持ちを持つようになり、後にFM802の開局に参加する原点になりました。
中西:FM802の開局といえば、「ミート・ザ・ワールド・ビート」が開催された時の衝撃も、僕らにとっては大きかったです。すごくカッコいいし、音楽愛のあるイベントだと思いました。こんなイベントをラジオ局が企画していて、正直くやしい気持ちになりました。
栗花落:もともとイベントはラジオ大阪で、79年から「JAM JAMスーパーロックフェスティバル」をやっていましたので、そこからほとんどスタッフも考え方も変わらずに「ミート・ザ・ワールド・ビート」につながっていったんです。とにかく「JAM JAM~」を最初にやった時の興奮が忘れられなくて、イベントは毎年開催しようと思い続けているんです。
中西:FM802は規模の大きなイベントも、小さなイベントも両方やり続けているじゃないですか。そこが素晴らしいと思いますね。東京だと、なかなか継続するのは難しいですから。
栗花落:それはラジオというローカル・メディアをベースにして、大阪という日本最大のローカル・エリアで開催していることが大きいんじゃないでしょうか。スケール感で言えば、首都圏に比べて関西は1/3くらいのマーケットはあると思うんです。でもFM802は、あくまでマス・メディアじゃなくてクラス・メディアなんです。その「クラス」をターゲットにしたメディア、イベント、コンテンツを展開するという意味では、関西のスケール感がちょうどいいんですよ。マスでやろうと思えば東京発信で、全国展開して、常に成長を続けなくてはいけませんが、僕達はリスナーや観客を増やせばいいという考え方はなくて、関西の一定のクラスの方々のために、802がいいと思う音楽を提供することに徹してきたんです。それを無理に広げようとすると、大切なものが薄れていくような気がするんです。