全国でコンサートプロモーターが産声を上げ、ACPCの名のもとに連帯、団体を設立してから30年。時代ごとにリーダー役を担ってきた歴代会長の目に、ライブ・エンタテインメントの歴史はどのように映っていたのだろうか。会長経験者の中では、残念ながら内野二朗さんと井上隆司さんはお亡くなりになっているが、宮垣睦男さん、永田友純さん、山崎芳人さん、中西健夫現会長が団体の歴史と現在の課題、若いスタッフへのメッセージを語った。
会報誌 ACPC naviライブ産業の動向と団体の活動をお伝えします。
歴代ACPC会長が語る団体の歴史
コンサートプロモーターの「原点」とライブ・エンタテインメントの「転換点」
学生時代の遊びが第一歩。 コンサートツアーが始まって 全国の仲間達の存在を知った。
―後にACPCを設立することになる各地のコンサートプロモーターの皆さんは、1970年代の初めにフォークやニューミュージックのシンガー・ソングライターと連帯して、コンサートを企画するところからキャリアを始めた方が多いと聞いています。高知で大学時代をすごした宮垣さんの場合は、どうだったのでしょうか?
宮垣:大学内に新入生歓迎実行委員会というものがあって、春にキャンパス内でコンサートをやったんですけれど、その時に僕も手伝っていて、三上寛と出会うことになるんです。そこにマネージャーも付いてきていて、彼を通して秋にも学園祭をやろうということで遠藤賢司、友部正人、高田渡を呼んだ。そもそもは加川良を呼びたくてコンタクトしたんですが、夏休み前くらいか夏休み中だったか、加川良が出演できなくなったという連絡をもらって、遠藤賢司に代わった記憶があるんです。加川良がダメでもこの人がいるよ、じゃあ遠藤賢司が「カレーライス」で売れているからいいんじゃない、といういい加減なやり取りだったような記憶があります。それがすべての始まりでした。
―東京のミュージシャンを呼ぶことが、後々自分の仕事になるという意識は持っていたのでしょうか。
宮垣:結果としてそうなっただけで、当時はコンサートをやったとしても年に1回か2回程度だと思っているから、まさかこんなことで飯が食えるわけがないと思っていましたね。だから完璧に遊び事です。チケットといっても、今のような流通は当然ありませんでしたから、印刷をしてカチャカチャ席番を打ったチケットをプレイガイドに置いて、あとは手売りで売ってもらっていた時代です。
―当時のコンサートの状況でいえば、例えばフォーク・シンガーの方々が、四国のどこかの街にやって来て、普通にお客さんは入ったのでしょうか。
宮垣:入りましたね。高知のホールとかで1000くらいのキャパですけど、売り切れていましたからね。その当時はわりとジョイントが多かったんですよ。いまでいうフェスみたいなもので、オムニバスで誰かと誰か、同じプロダクションで一緒に出演するのが普通でした。僕が主催した加川良の時の相方は三上寛でした。そのあと何年か経ってから良寛コンサートというタイトルで、全国何カ所か回っていた時代があるんですけど、たぶん僕がやったのが三上寛と加川良が組んだ最初だったんじゃないでしょうか。その翌年は泉谷しげるがデビューしてきて、泉谷しげると加川良で一緒にやって、これもチケットは即完売でしたね。
―そういったコンサートをはじめとするミュージシャン達の情報を、当時のリスナーはどうやって入手していたのでしょうか。
宮垣:ラジオの深夜放送です。テレビが関わっていない分だけ、ラジオがものすごくフォークと関わりを持っていましたから。当時の大学生、高校生にとってみたら、深夜放送がその時代を象徴していたんだと思います。
―自分と同じようにコンサートを企画している仲間が全国にいると知ったきっかけは?
宮垣:コンサートツアーが始まったことですね。ツアーというものは、もともと日本にはなかったですからね。それぞれが、それぞれのエリアで独自に交渉してミュージシャンを呼んでいたのが、ツアーという形態になり、東京発でPA車、楽器車、トランポ車にすべてのものを積み込んで、全国同じセットで、同じスタッフで回るという形に変わっていったわけですよね。それで同じミュージシャンが各地に行くと、北海道に行けば誰々、名古屋は誰々、大阪は誰々だというような名前と会社名が当然出てくるわけで、例えば東京で会ったりして、徐々に横のつながりが広がっていったと思うんですね。
―全国ツアーが定着したことで各地のプロモーターのビジネスも変化していったと思いますが、創業当時と一番大きく変わった点は?
宮垣:大規模化していきましたよね。その当時、2000キャパの会場が全国にそんなにあったわけじゃなくて、だいたい1500、1800くらいの規模のものが全国、県庁所在地にはあるという感じだったと思うんです。そのホールを満杯にすることで「すごい!」といわれていたのが、今でいうアリーナ、体育館、多目的な仮設会場でもコンサートをやるようになり、動くお金も大きくなったわけです。それまでは1公演で何100万円だった総売上が、1000万の単位のお金が動くようになって、お客さんが入らなかったら支払いができない心配が出てきました。リスクという言葉が使われるようになったのは、この頃からじゃないかと思うんです。
―宮垣さんが考える、これからのACPC、またはコンサートプロモーターにとって一番大切なテーマは、どんなことでしょう。
宮垣:30年前にスタートした団体が、手弁当で理事会を開いていた時代からすると、経済的なことも含めてわりと恵まれた環境にあるのは間違いないと思います。でも、ACPCに集まっている会社は、興行のチケットが売れてナンボの会社ですよ、みんな。今、チケットが売れていることに、こちらがあぐらをかいている部分があってはいけないと思いますし、アーティストが売れたら、この先もどういうふうに延命していくか、1日でも1年でも長く一線をキープするかということが、僕は一番のテーマだと思います。
デビューして40年から45年くらい経つアーティストがいたとして、制作的な話をすると、余計なデコレーションはいらないですよ。ちゃんと演奏ができて、ちゃんと歌えるという状態さえキープできていれば、お客さんは入ると思うんです。若い時の憧れのシンガー・ソングライターのライブをまた観にきてくれるでしょう。今はまさにそういう時代なんだと思います。